焼け野原の後の松葉牡丹(まつばぼたん)…お花が咲いてる「かわいいな…。」

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(身体の話と関係ありません。)

父と歩くコースに、玄関先に松葉ぼたんを植えているお宅があります。
(人様のお宅なので、挿写真は無料画像からいただいたものです。)

咲き始めたので、

「あ、松葉ぼたんが咲き始めたね。」

と、言いました。

「…かわいいね。」

毎年(一年に何回咲くのかわかりませんが)咲くたびに同じ会話をしています。

今回初めて、松葉ぼたんに寄せる想い出を話してくれました。

父は、横浜大空襲に遭っていますが、思い出したくないというほどの悲壮感ではなく、あまり戦争の話はしません。

(脳や心のはたらきまではわかりませんが、戦争のつらさを感じるには、また幼かったことが理由の一つだと思われます。)

「一面焼け野原になった後にさ、松葉ぼたんが咲いて、『あ、かわいいな…』って思ったんだよ。」

うちの父は、平沼橋という相鉄線の駅の近くに住んでいました。

横浜大空襲の時、平沼小学校に避難。

「小学校の階段の所に座ってた。」

「M叔父さんは赤ちゃんだったの?」

「ああ、近所のお婆さんが抱えてた。親父さんとおふくろさんたち大人は、火消しに奔走してた。」

焼夷弾による爆撃で、一面焼け野原になったそうです。

一面焼かれて真っ平になって、平沼小学校から掃部山公園(1060m)までが障害物なく見渡せたほど。

その焼け野原になった後、初めてお花が咲いているのを見つけて

「かわいいな…。」

って思ったそうです。思ったその花が松葉ぼたんで、松葉牡丹にはそんな思い出があるという話を初めてしてくれました。

お父さんからそういう戦争の影を感じないけど、

周りの大人が子供に心配させないような、良い大人ばかりだったのかね。

そんな風に尋ねたら、

「あの時は、大人たちも『今晩ご飯どうしよう』って心配しかしてなかったんじゃないかな…。」

とのことでした。

その後は、何もない場所で食べ物とかどうしていたのかということを尋ねたら、

「崎陽軒のところまで歩いて行って、並んで、…すごい長い行列だったけど、苛立つ人なんていなかったな…鍋に雑炊もらってきたよ。

雑炊って言っても、汁が多い雑炊。

鍋だって、焼け跡から探した、ひしゃげた鍋。」

と、語ってくれました。

「おばあちゃんと一緒に行ったの?」

「…覚えてないな…。おふくろさんと行った気もするけど、近所の人(子供)たちと行ったような気もする。」

 

「おじさんたちは…。にいちゃん(長男の伯父)は、戦争…だよね?」

「台湾…に行ってた。Mちゃん(2番目の伯父)は…学徒動員…まだ出てなかったけど、それで集められてたけど…どこだったのかな…。

Yちゃん(3番目の伯父)は、九州に疎開してた。」

 

…それだけの話だけど、そんな中、咲いた花を見て

「かわいいな…。」

って思った少年を想像したら、なんだかじんときました。

 

戦争のすごい話とかではないけれど、でもそんな風に幼少期を過ごした人もいる。

 

それを、誰かに伝えたくなりました。

で、直接伝えるには、耳を傾けたい人かどうかもわからない人に伝えてもな…って思ったので、ブログにしました。

10年くらい前に、何か、本で読んで、初めて横浜大空襲という存在を知りました。

その時は、今ほどサクサク動くインターネットじゃなくて、調べて出てきた情報を読んで、

「この近くを通ったし、この近くのお祭りも何度となく幼少期に出かけていたのに、全然知らなかったな…。」

と思いました。

広島出身の方に、原爆ドームは見ておくべきだと言われたのに、見ていない。

 

平沼駅跡(京浜急行電鉄・横浜)